中郷 景樹
頭脳明断で商売の勉強に人一倍熱心な我々飲食店グループのリーダーだった新道さんが阿蘇ゼミ以来出て来なくなった。
リーダーを失った我々飲食店のグループは「廊下とんび」の毎日だった。
そして1・2年が過ぎて行った。
ある日、岩城先生がお見えになったので、『誰か先頭に立って会を作ってくれないものでしょうか?』と、ご相談旁々こぼしたら、『中郷君、誰かだと人を当てにしていては何年経ってもできるものではないよ。自分でやらなければ駄目だよ』。
私に出来るだろうかと家内に相談した。『男がその気になってやれば出来るわよ』。家内に励まされ意を決し、先ず、開催場所を伊勢賢島、期日は九月中旬頃と決めた。
趣意を添えた案内状を出し、準備万端整って、いよいよ明日は賢島へ出発の朝、一通の電報が届いた。
「ケサ○ジ ハハシンダ アニ」昭和37年9月17日の朝だった。いずれかを犠牲にしなければと私は悩んだ。しかし、母の葬儀は私事、大会は公事、涙を隠して賢島へと旅たった。
あの時、中止していたならペリカンの今日はなかったかもしれないと感無量である。
第一日目の夜の講義は十一時過ぎに終わった。非常にくたびれていたが、「全国・喫茶食堂飲食店旅館同友会」の仮称を、もっとソフトな親しみやすい名称にしようと、大勢集まって審議に入った。
時間は経つが中々良い名が出てこない。
『キリスト曰く、バターとブレッド(パン)あれば人生よしと。その頭文字を採ってB&Bとしたら・・・・』
倉本先生の提案である。もう午前二時を過ぎていた。しかし私には納得出来ない。
岩城先生が『一応B&Bに決めたらどうかね』先生に逆らうことになった。
その時ふと、岩城先生の手元にある私達が開催記念にお贈りしたドイツ製のペリカン万年筆が目に入った。
「そうだ!我々はお菓子や飲み物食べ物を、ペリカンのように口一杯お客様に食べて頂くのが商売だ!』
ペリカンだ!と叫ぶ私の言葉に、岩城先生は呆れながらも快くご承諾下さった。倉本先生は、「ペリカンのPはペストリー、Rはライス、Nはヌードル」と書いて下さった。「ペリカンクラブ」の誕生である。
昭和37年9月20日、東の空が間もなく明けようとしている午前4時過ぎだった。
昭和56年10月14日・記
『私共の願い』
伊勢志摩国立公園 賢島荘にて
全国同友有志会 発起人 一同
伊勢ゼミナール 運営委員一同
今迄幾度も幾度も同じサービス業者だけで仲良く話し合いたいと、何年もの間心掛けて居りましたものゝ、いざとなると、多忙の為中々実現いたしませんで、ようやくその船出と成りました。これは皆、倉本先生始め川崎先生、岩城・木村両エルダーその他の方々の、ご指導とご支援の賜物と発起人並びに、志摩ゼミナール運営委員会一同深く感謝致して居ります。
先生方は船の羅針盤の星です、それを頼りに船を運航する船長即ち私共店主なのです。
ある船は大きくスピードの早い汽船、またある船は小さなポンポン発動機船もあることでしょう、そして乗組員も皆違うのです。
今度のゼミの大きな目的は、その羅針盤や星を見て、無事航海してまいりました各船長の笑いと、泪の航海日誌を直接身近に聞く機会としたいものなのです。
経済の波高い、この荒海に一隻だけで出航する危険を避け、心を一つにがっちりと船団を組み、みんなで、知恵や知識を分け合い、大きな船でも慢心することなく、小さな船でも恥じることなく、共に良き友人とがっちり手を組んで、この果てし無い航海を乗り切ろうではありませんか。
この会はその良き友達作りのために生まれたものなのです。
あなたの許に心温まる友人の一人でも多く出来ます事と思います。否、きっと出来る事を信じて居ります。
最後に、お店のご繁栄と、皆様のご健康をお祈りさせて戴きご挨拶と致します。
(昭和37年9月19日)